久しぶりに彦根城へ行ってきました。残念ながら彦根城の紅葉の見頃は11月中旬から下旬ですので、落葉はしていないもののピークを過ぎていましたが…。今日は黒門から入り、搦め手(裏手)から攻めてきました。
□ 二の丸佐和口多聞櫓
表門へ通じる重要な城門のひとつで、佐和口=桝形虎口(ますがたこぐち)※1を囲むように築かれています。鉄砲挟間※2(てっぽうざま)と矢挟間(やざま)を交互に配置し、敵の侵入に備えました。多聞櫓は長い平屋が特徴的な櫓で、戦国期の武将松永久秀が多聞城で初めて築いたことに由来し、武器の倉庫などに用いられる他、防壁の役割も果たすため重要な場所に建てられることが多いということです。
佐和口の左に伸びる櫓は江戸時代のもので重要文化財、右のは昭和期に復元されたもので「開国記念館」として一般公開中です。左の多聞櫓の右端の建物が不自然に途切れ、石垣だけが残っています。これはかつて右と左の多聞櫓の間に櫓門があった名残で、道路には門の基礎が残っています。
内部が一般公開中です。(無料)2010年3月まで。約12年ぶりの特別公開ですのでぜひ見ていただきたいと思います。
※1桝形虎口:文字通り、容量を測る道具「枡(ます)」のように石垣を方形に囲って、前後に門を二重に構えた形式で外側の門を「一の門」・内側の門を「二の門」と呼ぶ。敵の侵入を阻むとともに、攻撃の隊を整える場所でもあった。また、虎口とは城郭用語で城の出入り口のことをいう。
※2 挟間=内から外へ鉄砲や矢を放つ小窓
当時の入り口の石段は岩岐(がんぎ)という横に長いもの。これは大人数が一度に櫓に入り、敵に対する態勢を整えるためだということです。なるほど…。
□ 馬屋[重文]
藩主などの馬21頭を収容した建物で、全国に残る大規模な馬屋として他に例がありません。当時は現在の売店まで建物があったそうです。
□ 玄宮楽々園
隠居した藩主とその家族が暮らした下屋敷です。建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園としています。城内に下屋敷が残っているのは彦根城だけということです。紅葉は多くはありませんが、とても美しいです。
せっかくなのでお殿様が客人をもてなしたという「鳳翔台」で一服。
□ 竪堀と登り石垣
黒門からすぐ近くのところにあります。これは山の頂から麓に向けて設けられた石垣で敵の斜面の移動を防ぎます。彦根城には合計5箇所、設けられていますが、ここでは間近に見ることができます。
数字が書かれた石垣を発見!これは長年の間に崩れてきた石垣を積み直す作業のためのものでした。当時と変わらないくらいとても手間のかかる作業のようです。
やはり搦め手の石段は表よりは狭く、石垣は高くて急勾配です。城郭の石段は幅と高さがまちまちで登りづらいです。これも敵を阻む工夫のひとつなんですね。
□西の丸三重櫓
三階には見張り用の窓、一二階には攻撃用の窓、外には深い堀切があります。主に琵琶湖からの攻撃に備えた櫓です。装飾がない簡素な造りはそのためですね、きっと。
西の丸の堀切。堀切とは山の尾根を切断して造った空堀で防御施設。鐘の丸と太鼓丸の間にもあります。
□本丸 着見台
築城当時、本丸には天守のほか御広間、宝蔵、矢櫓、着見櫓がありましたが、天守以外が明治時代に取り壊されました。着見櫓は二重の櫓で着見と月見の意味を兼ねて着見台(つきみだい)と呼ばれ、城内へ到着する馬や人・湖上交通等の監視とお月見会が開かれたとか。ここも岩岐(がんぎ)という石段造りで緊急の時はいっせいに駆け上がれるようにしています。着見台から琵琶湖を眺望。
□ 天守
三階立ての比較的小さな天守にもかかわらず、3種類の破風、二階と三階に花頭窓、三階に廻縁(ベランダ)の装飾が巧みに施されています。梁行(はりゆき)に対して桁行(けたゆき)が長い長方形の天守で、正方形に近い形をしているのが多い中で珍しいということです。外観の東西面はシャープでりりしく、南北面はどっしりと安定した印象です。つまり、どこからも見ても美しいのが彦根城天守の特徴なのです。
東面
南面